1904-1919: Leeds City
リーズ・シティは1904/5シーズンにウエスト・ヨークシャー・リーグに加わり、翌シーズンにはフットボール・リーグに加わるも、エランド・ロードでの最初の試合はウェスト・ブロミッジ・アルビオンに2−0で敗れた。
始めのうちは財政難とチームの不調ため苦しんでいたが、監督のハーバート・チャップマンが不審の責任と財政難を理由にクラブを離れた事で更なる困難に陥る。
後任はジョージ・クリップスに引き継がれたが、経営陣の意見の相違やすぐに結果が出なかったことで、時間は十分に与えられることはなく、多くの監督がそうであるように短期間での解任となった。
FA(フットボール協会)は第一次世界大戦の間に選手たちに支払われるべきだった給料についての報告要求を出したが、シティは満足させられるものを提出することができず、再提出が求められ最終公聴会の日時は1919年10月6日に設定される。
その2日前にモリニュー・スタジアムでは、リーズ・シティがウォルバーハンプトン・ワンダラーズと試合をし、4−2で敗れた。それがシティとしての最後の試合となった。
公聴会でFAに十分なものを提出することができなかったために、1919年10月13日までにリーグからの除名されるという判断が下された。クラブは解散を余儀なくされ、リーズのメトロポール・ホテルで異様な売却作業が行われ、クラブの道具がひとつづつオークションにかけられていった。
数時間後、シティ・センターにあるサレム・ホールに集まったサポーター達は、新しいプロフェッショナルなクラブを創設することを提案し、サポーターズ・クラブが迅速に行動を開始する。
1919-1930: Humble Beginnings
新クラブ、リーズ・ユナイテッドはリーズ・シティのリザーブチームが抜けた穴を埋めるために1919年10月31日にミッドランド・リーグに招待された。
監督には元シティのプレイヤー、ディック・レイが、最初のキャプテンにはジム・ベイカーが就任する。
初戦はバーンズリー・リザーブチームとの試合で、0−0の引き分けに終わり、その後も勝ち星を挙げることは出来なかったが、12月20日にリンカーン・シティのリザーブと戦い2−0と勝利して待望の初勝利をあげた。
一方で、2部リーグのハダスフィールド・タウンの会長、ヒルトン・クロウザーは地元ファンがラグビーに熱を上げ、フットボールが十分なサポートを受けないことに不満を感じており、その視線リーズに移す。彼はチームごとエランド・ロードに移動することを提案した。当初、話し合いは秘密裏に行われた。そこで話し合いの焦点となったのは、新しいクラブがリーズ・ユナイテッドかリーズ・トリニティと呼ばれるべきかという点だったた。
ハダスフィールドのファンからの反対によって、FAは両方の意見に耳を傾けた結果、リーズが12月31日までにクロウザーに25,000ポンドの賠償を支払うという決断に達した。その決断に憤慨したファンは一気にチームのサポートに回り、スタジアムとその周辺の改善に£8,000しか投資できないといわれていたにも関わらず、リーズの観客数は激増した。それらの騒動によってクロウザーはリーズに移らざるをえなくなった。
クロウザーはFAカップを勝利した監督アーサー・フェアクロウをバーンズリィから獲得し、ディック・レイをアシスタントに任命した。また、クラブに£35,000を貸しつけ、フットボール・リーグへ昇格するために資金を投入を行う。
1920年5月31日FAで31票を獲得したリーズ・ユナイテッドは2部リーグへの昇格チームに選ばれた。最初の試合は1920年8月28日のポートヴェイル戦で結果は2−0で敗れたが、9月4日のエランド・ロードでの同カードで3−1とリベンジを果たし、リーグでの初勝利を収める。なおクラブ初ゴールは、9月1日に2−1で敗れたサウス・シールド戦でレン・アーミテイジが決めたものである。
シーズン序盤はディフェンスが強く、キャプテンのベイカーとサイドバックのバート・ダフィールドの活躍で14位につけていた。
フェアクロウは後にイングランド代表となるアーニィ・ハートのディフェンスを中心に再建し、前線のジャック・スワン、パーシィ・ウィップ、ジョー・リッチモンドが活躍し、1923/24シーズンはリーズにとって成功となった。17試合でわずか2敗という結果で2部リーグ優勝の可能性を残し、シーズン最終日の1924年4月26日、エランド・ロードにネルソンを迎える。
ウォルター・コーツのゴールで1−0の勝利を収め、リーズ・ユナイテッドは2部リーグ優勝を果たし、1部リーグに参入することが決まった。優勝トロフィーはキャビネットに収められている。
トップリーグでの1年目は厳しいもので18位で終了となったが、翌シーズンは更に厳しい結果がまっており、最終戦でスパーズに4−1と勝利したことでかろうじて19位に留まった。
この時期に、後にリーズの名プレイヤーの一人に数えられるディフェンダーのウィリス・エドワーズを、チェスターフィールドから獲得した。彼は1988年に永眠するまでずっとクラブと共にあった。
1926/27シーズンにはトム・ジェニングスが35ゴールを決めており、クラブ史上最多となる69ゴールを上げたが、フェアクロウ監督がクラブを離れてしまったこともあり、ディック・ロイが後を継いだが降格してしまう。
トム・ジェニングスとラッセル・ウェインズコートの前線にチャーリィ・ケートリィとジョク・ホワイトが加わる。4点以上を決める試合が10試合以上もあり、98リーグゴールを記録する。
1928/29シーズンには優勝を期待されていたが、後半戦では12ポイント中1ポイントしか獲得できず、リーグの中位でシーズンを終える。
1929/30シーズンにはエドワーズとハートのディフェンスにジム・ミルバーンが加わり、ゴールにはジム・ポッツが立ちはだかった。クラブはドン・リヴィエより前の時代では最高の5位でシーズンを終了した。
これでチームがタイトルにチャレンジする体制が整ったのである。