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1930-1940: Marching On
1930/31シーズンにリーズは降格争いに加わり、最終戦でマン・シティがブラックプールに勝利することが条件で、ダービー相手に2点差をつける必要があった。
ユナイテッドは3−1で勝利したが、ブラックプールが終盤に同点に追いついて引き分けとなり、リーズは再びディヴィジョン2へ降格する。
ブラックプールはシーズンを通して125失点を喫し最多失点記録となったにもかかわらず残留となった。
リーズは1931/32シーズンでは9連勝を収めるなどして、ウォルヴァーハンプトンに次いで2位で昇格を果たした。
ディフェンスがチームの鍵を握っており、ジャックとジョージのミルバーン兄弟、エドワーズ、ハート、そしてファンから愛され、アーセナルへ移籍するまでにリーズで183出場を果たし、イングランド代表でも20試合に出場した“ハードマン”ウィルフ・コピングらが中心だった。
1932/33シーズンでは14試合負けなしという結果を収め、2、3シーズンはリーグの中位でシーズンを終えた。
ストライカーのアーサー・ハイネスは137試合で82ゴールを決めており、1933年から1935年のシーズンでは得点王となった。なお、1934年4月7日にレスター・シティを8−0で破ったが、その試合にはハイネスは出場していない。
ディック・レイは1935年のシーズン終了と共に退陣し、ビリー・ハンプソンが監督となった。
ハンプソンは元イングランド代表キーパー、アルバート・マッキンロイ、ストライカーのジョージ・ブラウンを獲得したが、チームの調子は上がらず、1936/37シーズンのアウェイでの戦績はひどく、残留争いに加わることになった。
ハンプソンは南アフリカのフォワード、ゴードン・ホジソンをアストン・ヴィラから獲得した。ホジソンは86試合で53ゴールを決め、1938年10月1日にレスターに8−2で勝利した際に5ゴールを決めた。
リーズは1937/38シーズンはトップに立っていたが、年明けから調子を崩し、最終的には9位で終えた。
1938/39シーズンは13位で終え、これが第二次世界大戦前の最後のシーズンとなった。
1940-1950: Charles Era
戦争でエリック・スティーブンソン、アラン・ファウラー、ジム・ミルバーンが負傷したが、無事に回復し、後に代表でもプレーしている。1946年フットボール・リーグが再開した。
ビリー・ハンプソンは監督としてチームに戻り、戦前にリーズでプレーしたほとんどの選手たちがチームに戻ってきた。しかし、チームは過去の状態まで戻ることはできず、トータルで勝点18、アウェイではわずか1ポイントしかあげられず、最後の17試合では15敗2引き分けで終了した。
ハンプソンは監督の座を降り、1947/48シーズンにウィリス・エドワーズが監督に就任したが、チームはディヴィジョン2でも苦しみ、シーズンを通してアウェイでは1勝しかできなかったが、わずか2ポイント差でディヴィジョン3ノースへの降格を免れた。
わずか1シーズンでエドワーズは解任され、フランク・バックリィが就任した。バックリィはジョン・チャールズを見出したが、一方ではFAカップでニューポート・カウンティに3−1で敗れる失態もさらしている。
リーズはカップ戦の記録ではどのチームよりもひどい結果で、5回戦まで突破できなかった。しかし1949/50シーズンに転機が訪れる。4回戦プレーオフでディヴィジョン1のボルトンを下すと、5回戦のカーディフ戦では勝利を見るために多くのサポーターがエランド・ロードへ詰め掛けた。
ユナイテッドのディフェンスは強固だった。17年リーズでプレーしたジム・ミルバーンの他、ジミー・ダン、エリック・カーフット、キャプテンのトミー・バーンデン、そしてチャールズである。しかし、この視あーではディフェンス以上に攻撃陣が相手に脅威を与えていた。デイヴィッド・コッカラン、レイ・アイゲルドン、レイ・ウィリアムズ、そして1948/49シーズンと1950/51シーズンに得点王となったレン・ブロウニングがいた。
カップ戦での勝利が勢いを加速させ、リーグ戦での戦いも調子を上げる。中でもハイライトは22戦負けなしという記録を続けていたトッテナムをホームで打ち負かした試合である。
FAカップの準々決勝は1950年3月4日に行われ、ハイバリーの再戦で1−0で敗れるもののアーセナルを相手に素晴らしい戦いぶりを見せた。
リーズの最終的な順位は5位で、翌シーズン以降に昇格の期待を抱かせた。 |